吉田屋美濃錦の歴史と名の由来
吉田屋は明治13年(1880年)開業の料理屋でございます。
それ以前の江戸時代末期には尾張の間々新田(現在の愛知県小牧市のあたり)で尾張徳川家の鷹狩りのご休息処を任されておりました。そして吉田屋はその頃からの屋号でございます。
明治維新の変革によりその職を解され、かつての徳川の親藩でもあった郡上八幡へ山間平穏の地を求めて移り住んでまいりました。
そして郡上で最初のうなぎ屋を始めます。古来より良質の味醂、たまり醤油の産地である尾張地方におりましたのでことうなぎのあつかいにはこなれていたようです。
「まぶし丼20銭也」という記録が残っておりますが当時は米1升が12〜13銭の時代でした。
やがて掛け茶屋ほどの店はしだいに料理屋として形を整えてゆきます。 昔は料理屋には必ず風呂があり、客はまずひと風呂あびて浴衣に着替えゆったりと座敷にはいります。
その間に店は料理の用意をすすめ、芸妓を手配して座を整える、そんな時代が長くつづきました。 しかしその反面でそもそも庶民のものであったはずのうなぎがだんだん高級化していったのです。
昭和55年(1980年)に吉田屋が創業百年をむかえたのを機に「うなぎを誰もが身近な味として親しんだ掛け茶屋の時代の原点を忘れてはならない」という考えから美濃錦を開業いたしました。
ふつうですと他所で店を構えたときに、もともとの出身地を屋号に入れて名のるというのが常ですが、
「美濃の国に移って百年、この地に根をおろしました。」
の意味をこめてあえて美濃に在しながらもその二文字を屋号に入れさせていただき、私どももそしてこの土地も幾久しく栄えますようにと錦の文字を添えたわけです。
そのような思いをお含み下さりどうぞご愛顧いただきますようお願い申し上げます。
北大路魯山人と吉田屋
吉田屋にはかつて「みたたき」という冬の珍味がありました。
全山紅葉の奥美濃の山々で獲れたツグミをその名のとおり身も骨も丹念に石の上で砕いて郡上の地溜りに漬け込む、という調理などというには程遠い原始的なもので、鎌倉時代の文献に「身叩」の名が見られることから、冬の貴重な保存食として雪深いこの地に伝えられたものと考えられます。
ツグミの捕獲が禁じられてから、その製造は途絶えましたが、以前は郡上八幡のどの料理屋でも冬の珍味として酒席には必ず付いたものでした。
大正4年、石川県山代温泉に滞在していた北大路魯山人は茶人趣味人として交遊のあった郡上八幡の斉藤家先代主人(現在の斉藤美術館主の御祖父)に奨められてこの「みたたき」を賞味し、魯山人(当時は魯卿と名のっておいででした)と当館に親交が生まれました。
やがて魯山人は東京で主催する「美食倶楽部」の全国特選珍味のひとつにこの「みたたき」を取り上げて、大正10年のころにたびたび当館より発送した記録があります。
そしてこの頃の親交の中で魯山人から先々代の女将であった棚橋や宇(よう)がいただいた
「新意を有し材料の精良なること。そして無駄な手数の料理は愚。」
という教えを吉田屋の調理の訓戒として今日まで守ってきております。











